国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(平成27年3月31日以前は独立行政法人宇宙航空研究開発機構。以下「機構」という。)は、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構法(平成14年法律第161号。27年3月31日以前は独立行政法人宇宙航空研究開発機構法)に基づき、人工衛星等の開発、運用等の業務を行っている。
人工衛星の運用は、人工衛星ごとに作成された運用計画書や運用手順書等に基づき、機構の追跡管制センター等から人工衛星に対して、軌道や姿勢を制御するなどの様々な動作を指令するためのデータ(以下「コマンド」という。)を送信することなどにより行われている。コマンドには、姿勢制御等を行う際の具体的な移動角度等の数値(以下「パラメータ」という。)が含まれているものがあり、パラメータを変更したコマンドを送信することで、スラスタ(注1)の噴射方向等の設定を変更して、人工衛星の軌道や姿勢を制御することができる。そして、これらのコマンドは、研究開発契約等により人工衛星の開発及び運用を請け負った企業(以下「契約の相手方」という。)等が打上げ前に作成するとともに、運用中においても必要に応じて作成している。
機構が制定した品質保証プログラム標準(平成16年安全・信頼性推進部長制定)によれば、契約の相手方は、作成したコマンド等の品質が設計段階から運用まで維持されていることを確認することなど、同標準に定められた必要な要求事項を満足するよう規定した品質保証プログラム計画書(以下「品質計画書」という。)を作成することとされており、機構の承認を得た品質計画書に基づき契約を履行することとされている。
また、機構は、人工衛星の開発、運用等に係る各プロジェクトに対して、打上げ前に実施している詳細設計審査等(以下「打上げ前審査」という。)において、作成されたコマンドの妥当性を確認するほか、人工衛星の打上げ後も、品質計画書に基づき品質が維持された適切なコマンドが作成されるなど、契約の適切な履行を確保するために、契約の相手方が、コマンドを作成する際に実施する作業過程(以下「コマンド作成プロセス」という。)に、作成されたコマンドにより人工衛星がどのような動きをするかのシミュレーション(以下「検証作業」という。)の実施を含めていることを確認している。
X線天文衛星ASTRO―H「ひとみ」(以下「ASTRO―H」という。)は、X線等で観測される天体の研究を通じて宇宙の構造等を解明することを目的とした人工衛星である。機構は、ASTRO―Hの開発や、打上げ後から本格的な運用開始までの間に係るコマンド作成等の運用支援(以下「初期運用支援」という。)等を行わせるため、22年7月に日本電気株式会社(以下「NEC」という。)との間で「X線天文衛星ASTRO―Hフライトモデルの開発契約」(22年度から27年度までの契約金額計79億8477万余円。以下「開発契約」という。)を締結している。
開発契約の履行に当たっては、NECは、作成したコマンドの品質が設計段階から運用まで維持されていることを確認することなどを明記した品質計画書に基づき、初期運用支援等の業務を実施することとしている。そして、機構は、ASTRO―Hの打上げ後も、品質計画書に基づき品質が維持された適切なコマンドが作成されることを確保するために、前記のとおり、NECがコマンド作成プロセスに検証作業の実施を含めていることを確認している。
ASTRO―Hは、28年2月17日に打上げに成功したが、同年3月26日に通信不通状態となった。そして、機構は、復旧調査等の結果から、ASTRO―Hは人工衛星としての機能を喪失している可能性が高いと判断して、同年4月に運用を断念した。当該事故については、機構が同年6月に文部科学省に提出した「X線天文衛星ASTRO―H「ひとみ」異常事象調査報告書」(以下「報告書」という。)において、様々な原因が報告されている。報告書によれば、ASTRO―H打上げ後の同年2月25日にNECが実施した、スラスタを制御するためのパラメータを変更して新たなコマンドを作成する作業において、プラスで入力すべきパラメータを誤ってマイナスで入力し、さらに、同作業で作成した新たなコマンドについて、NECが検証作業を実施していなかったことから、同年2月28日に不適切なコマンドがASTRO―Hに送信されていたとされている。そして、同年3月26日にASTRO―H本体が回転する姿勢異常が継続したことから、セーフホールドモード(注2)に移行するためにスラスタを噴射したが、上記の不適切なコマンドが送信されていたことによってスラスタが正常に作動せず、ASTRO―Hの回転を更に加速させたことが事故の原因の一つとされている。
(検査の観点、着眼点、対象及び方法)
ASTRO―Hは、開発等に多額の国費が投じられたにもかかわらず、本格的な運用前に機構が運用を断念したため、X線等で観測される天体の研究を通じて宇宙の構造等を解明するという目的を達成できない結果となっており、世界のX線天文学将来計画に空白域を生じさせてしまうなどの影響を及ぼしている。そして、開発契約に基づき実施された初期運用支援において不適切なコマンドが作成されていたことが、事故の原因の一つとして挙げられている。
そこで、本院は、合規性、有効性等の観点から、NECによる開発契約の履行において、機構による打上げ前審査はASTRO―Hの運用に重大な影響を生じさせないために十分なものとなっていたかなどに着眼して、開発契約をはじめとするASTRO―Hの開発等に対して機構が支出した額計318億3257万余円を対象として、機構相模原キャンパスにおいて、契約書、調達仕様書等の関係書類を確認するとともに、開発契約の相手方であるNECにおいて、初期運用支援の作業実態等について関係者から説明を聴取するなどして会計実地検査を行った。
(検査の結果)
検査したところ、開発契約に基づき27年度に実施された初期運用支援(契約金額相当額3130万余円)において、次のような事態が見受けられた。
NECは、報告書のとおり、打上げ後に新たなコマンドを作成する作業において誤ったパラメータを入力し、コマンド作成プロセスにおいて実施することとしていた検証作業を実施していなかった。その結果、NECは、適切なコマンドを作成しておらず契約を適切に履行していなかった。
これに対して機構は、NECが打上げ後に作成した新たなコマンドについて、コマンド作成プロセスに従って検証作業が行われたかについての確認を行う取扱いとはしていなかった。
このような取扱いとしている理由について機構は、打上げ前審査においてコマンド作成プロセスに検証作業の実施が含まれていることが確認できていれば、打上げ後に新たなコマンドを作成する場合についても、確認済みのコマンド作成プロセスに従って契約の相手方が適切に作業するものと考えていたためとしている。
しかし、たとえ打上げ前審査においてコマンド作成プロセスに検証作業の実施が含まれていることが確認できていたとしても、契約の相手方によって打上げ後に新たなコマンドを作成する際にパラメータの入力を誤ったり、検証作業の実施や確認を失念したりする人為的ミスが生ずる可能性を否定することはできない。したがって、このような取扱いは、契約の適切な履行を確保する枠組みとしては十分でなく、機構は、打上げ後に契約の適切な履行がなされなかった場合には回復不可能な重大な影響を生じさせる可能性があるという人工衛星の開発及び運用の特性を踏まえた必要な処置を講ずべきであったと認められる。現に、NECが検証作業の実施を失念した結果、不適切なコマンドがASTRO―Hにそのまま送信されており、これにより、ASTRO―Hの運用に重大な影響を生じさせていた。
このように、打上げ後に作成された新たなコマンドについて、機構がコマンド作成プロセスに従って検証作業が行われたかの確認を行う取扱いとしていなかった事態は適切ではなく、改善の必要があると認められた。
(発生原因)
このような事態が生じていたのは、機構において、打上げ後にNECが契約に基づき行う作業がASTRO―Hの運用に重大な影響を生じさせないようにするための審査や確認の在り方についての検討が十分でなかったことなどによるものと認められた。
上記についての本院の指摘に基づき、機構は、29年9月に、人工衛星の開発、運用等に係る各プロジェクトが適用すべき過去の重要な教訓を適切に反映しているかを審査するために用いるチェックリストを改訂して、ASTRO―Hの事故を踏まえて、打上げ前審査において、人工衛星の打上げ後に契約の相手方による検証作業が行われたかの確認を含む人工衛星の運用に係る作業手順が作成されているかなどについての確認を徹底することにより、今後、人工衛星の打上げ後に、契約の相手方が新たなコマンドを作成する必要が生じた場合であっても、人工衛星の運用に重大な影響を生じさせないよう処置を講じた。